8年目の春が来ました。

(つい先日、ラドクリフカメラ前にて。)


黙祷。


こんにちは。前回の更新からまる1ヶ月が経ってしまいました。

3月に記事を書くならまずこのこと、と心に決めていたのですが、非常に慌ただしい3月上旬・中旬がすぎ、なかなかじっくり考える時間がありませんでした。以下、私の勝手な考えですが、自分なりにこの震災への思いについて述べせていただきますので、どうぞご堪忍くださいませ。


2011年3月11日から8年が経過致しました。

当時中学卒業を控えた私にとって、あの震災は、衝撃的な出来事でした。

東京の多くの路線が止まり、外で遊んでいた私は帰宅困難者となってしまい、友人の祖母宅に泊めさせて貰ったあの晩、大型のテレビ越しに見た、町が波に飲み込まれていく映像。


忘れようがありません。


一方で、身近に被災者が居なかった私にとって、「震災」は、「とても悲しいこと」、「復興」は「ずっと続くもので、私たちが目を向け続けなければならないこと」と理解しながらも、どこか「近くの遠くで起こったこと」感が否めませんでした。


それから6年間は、客観的に震災について考える事があっても、あの出来事に深入りする事はありませんでした。


2018年、7年目の夏、私はとうとう、ある被災地を訪ねることができました。

とうとう、7年目にして、己の無知を恥じる時がやってきたのでした。

その町は山と海の自然に溢れた、美しい場所でした。

町は高台へ移転し、道路も建物も、インフラは全て綺麗に整っていました。

海岸沿いには、ある一定レベルの津波を防ぐことのできる、防波堤が建設中でした。

被災地に残った人々は、元気に前向きに、1日1日を過ごされているようでした。


そんな現地の方々の被災体験を伺って、私はとても胸が痛みました。

家族を失った地で、家族の思い出と共に生きることの、計り知れない、決して消えない、悲しみ。


寂しさ。


私がお会いした方々はとてもあたたかくて、笑顔で、活気があって。ただ、どこか、寂しそうだった。勿論、その寂しさや、悲しみを抱えても、また自ら踏み出す強さもあったけれど


「復興」とはなんなのか、物質的に元の豊かさが戻れば良いのか。考えさせて頂きました。


それから、震災時からずっと東京から遥々、支援を続けている方にも、偶然お会いしました。

メディアに映らないところで、綺麗事で片付かないところで、日々、復興の現実と向き合い続ける人々の熱意。


その町の内外の方々と接する中で、私は、物質的豊かさがある程度「復興」した現在において、必要なのは人の熱であると感じました。

被災者の方の心の「復興」は永遠の課題でしょう。癒えない悲しみをせめて和らげることができるのは、私たち外部の人間でしょう。


被災地に、「被災地」というレッテルを貼って、陸の孤島にしないこと。悲しい記憶を大切にしながらも、より多くの人が訪れ、楽しい思い出を作れるような場所に変えていくこと。また、その手伝いをすること。


その土地の人々と関わり続け、「他人事」で片付けられないようにすること。ほんの僅かでも、一時でも、自己満足に過ぎなくても、痛みを分かち合うこと。それを時々思い出すこと。


私は、言うなれば、都合の良いようにしか考えられない、綺麗事しか言えない、役の立たない、勝手な部外者にすぎないのかもしれません。

それでも、昨年、あの地を訪れて、そこで何人か知り合いができました。

私は、この繋がりを、またすぐに戻っていけるように、どこか心に留めておきたいと思います。

また、私はこの地に限らずに、こうした繋がりを大切にすることで、より多くの地域と人が私にとって「他人事」じゃなくなって、従って、いつか戻らなきゃいけなくなるように、しておきたいと思うのです。



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C’est la vie!

大学まで留学経験の無かった私(大学1年秋のTOEIC570)が4年次にIELTS7.5を取得し、Oxford大学院に進学します。うまくいく保障はないけど、何事もやってみなきゃわからないもの。 私が上手くいった方法が、必ずしも皆さんのベストな考え方や勉強方法に当てはまるわけではありません。 それでも、少しでも参考になりますよう、私のこれまでや、これからについて、書きます!